「近所の募集賃料が上がっているから、入居中の部屋も同じ金額にできる」とは限りません。

既存の賃貸借契約で賃料増額を検討するときは、周辺で最も高い募集物件を探すのではなく、対象住戸と比較しやすい複数の事例を集め、データの種類と条件の違いを明らかにすることが重要です。

借地借家法32条は、建物の借賃が近傍同種の建物の借賃に比べて不相当となったことを、増減額請求の考慮要素の一つに挙げています。ただし、近傍同種賃料だけで改定額が自動的に決まるわけではありません。公租公課や経済事情の変動、従前の賃料、契約の経緯なども含め、個別に検討します。

また、一定期間は賃料を増額しない旨の特約がある場合は、同条1項ただし書との関係を先に確認する必要があります。

この記事の要点

  • 「募集賃料」「契約成立を確認した成約賃料」「取引事例」「同一建物の契約事例」は、提供元の定義を確認して区別して記録します。
  • 比較対象は、立地だけでなく、築年、構造、面積、間取り、階数、設備、契約条件、データ時点までそろえて選びます。
  • 同一建物の事例は比較しやすい一方、新規契約の賃料を入居中住戸の継続賃料へそのまま当てはめることはできません。
  • 賃料査定システムは事例の収集・整理・説明に役立ちますが、法的な相当賃料や交渉結果を自動的に確定するものではありません。
  • 任意交渉用の比較資料と、不動産鑑定士が行う正式な鑑定評価は別のものです。

「近傍」と「同種」は、距離だけでは決まらない

「近傍」は、単に直線距離が近いという意味ではありません。駅や生活利便施設へのアクセス、道路・商業集積、地域の人気や需給などが似ている範囲を検討します。物件数が多い地域と少ない地域では、妥当な検索範囲も異なります。

「同種」は、マンションかアパートかといった建物種別だけでも決まりません。少なくとも次の項目を確認します。

  • 所在地域、最寄り駅、駅徒歩、周辺環境
  • 建物種別、構造、築年、建物のグレード
  • 専有面積、間取り、階数、向き、角部屋かどうか
  • オートロック、エレベーター、宅配ボックスなどの設備
  • 普通借家か定期借家か、契約期間、更新条件
  • 賃料に共益費や駐車場代を含むか
  • 敷金、礼金、更新料、フリーレントなどの契約条件
  • 募集または契約の時期

国土交通省の不動産鑑定評価基準運用上の留意事項も、賃貸事例を選ぶ際には、新規賃料と継続賃料の別、用途、賃貸形式、賃貸面積、契約期間、一時金、修理や使用方法などの類似性に留意するよう示しています。

近傍同種賃料を調べる5つの方法

1.同一建物の契約・改定事例

同じ建物の別住戸は、立地、構造、築年、共用設備が共通するため、有力な比較候補です。管理台帳、賃貸借契約書、更新・改定履歴などから、住戸ごとの条件を確認します。

ただし、面積、間取り、階数、向き、室内設備や改修状況は住戸ごとに異なります。また、退去後の新規契約と、入居が続いている住戸の賃料見直しとでは前提が異なります。同一建物だからという理由だけで、直近の新規賃料をそのまま請求額にするのは適切ではありません。

2.ポータルサイトなどの募集情報

募集情報は、現在の市場で貸主側が提示している条件を広く把握するのに便利です。画面やPDFを保存する際は、掲載日、所在地、面積、築年、賃料、共益費、初期費用、フリーレントなども一緒に記録します。

もっとも、募集賃料は契約成立前の提示条件です。値下げ、フリーレント、賃借人が負担する一時金その他の条件により、契約期間中の実質的な負担は表示賃料だけでは分かりません。仲介会社等に支払われる広告料は賃借人の負担とは別の項目として整理します。募集情報だけでなく、他の種類のデータと組み合わせて使うのが基本です。

3.不動産会社が保有する契約・取引事例

管理会社や仲介会社が、実際の契約内容を確認できる事例を保有している場合があります。利用するときは、「契約成立を確認した賃料か」「管理費込みか」「契約時期はいつか」「フリーレント等があったか」を確認します。

データベース上で「成約」「取引事例」と表示されていても、収集方法や定義はサービスごとに異なります。名称だけで判断せず、データの出所と作成方法を確認する必要があります。

他住戸の契約書、レントロール、取引事例を外部へ示す場合は、氏名、連絡先、部屋番号その他の個人を識別し得る情報を必要な範囲で匿名化し、利用目的、本人同意の要否、提供元の利用・転載条件も確認します。

4.賃料査定システムによる事例収集・整理

賃料査定システムは、多数の候補から類似事例を探し、比較資料を作る作業を効率化できます。スマサテの記事「募集データと成約データの違いについて」では、賃料査定や査定根拠となるデータについて案内されています。

本稿では、スマサテで確認する情報を「取引事例」と表記します。取引事例は比較検討の材料になりますが、個々の表示項目の意味、収集元、加工の有無、成約確認の範囲は、利用時点の仕様と利用条件で確認する必要があります。「取引事例」という名称だけを根拠に、すべてを実際の契約成立が個別確認された成約賃料と言い換えることは避けます。

オーナーや賃借人へ示す資料では、開示可能な範囲でデータの種類と時点を明記し、同一建物の履歴、募集情報、契約成立を確認できる事例などと照合します。

5.不動産鑑定士による鑑定評価

調停・訴訟を見据える案件や、比較できる事例が少ない特殊な物件では、不動産鑑定士への依頼を検討することがあります。

国土交通省の不動産鑑定評価基準では、継続賃料について、差額配分法、利回り法、スライド法、賃貸事例比較法による試算賃料を関連付けて決定する考え方が示されています。どの資料・手法をどの程度重視するかは案件ごとに異なり、私的鑑定を取得すれば当然にその金額が認められるわけでもありません。費用対効果を含め、取得時期を検討します。

集めた事例を比較資料にする5つの手順

手順1.対象住戸の基準情報を確定する

現行賃料、共益費、契約開始日、直近の賃料合意時点、面積・間取り・設備、契約条件を整理します。対象住戸の条件が曖昧なままでは、比較対象も選べません。

手順2.最初は広めに候補を集める

同一建物、近隣の類似建物、募集情報、契約・取引事例、賃料査定システムの結果を集めます。この段階で都合のよい高額事例だけに絞らないことが重要です。

手順3.データの種類をラベル付けする

各事例を「募集」「契約成立を確認」「取引事例」「同一建物の新規契約」「既存契約の改定」などに分類します。「取引事例」は提供元の定義も記録し、出所、取得日、対象期間を併記します。

手順4.条件差を確認して採否を決める

立地、築年、面積、階数、設備、契約形態、一時金、データ時点などを比較し、差が大きすぎる事例は除外します。差を調整して使う場合は、補正の方向と理由を説明できるようにします。

統計的な裏付けのない「駅徒歩1分につき一律いくら」といった独自ルールを、すべての物件へ機械的に当てはめるのは避けるべきです。

手順5.請求額ではなく、まず説明可能な範囲を検討する

比較結果が示すのは、主として市場における賃料水準を考える材料です。既存の契約では、現在の市場で新たに貸し出す場合の新規賃料と、入居中の契約を見直す継続賃料を区別する必要があります。

そのため、比較事例の最高額を請求額にするのではなく、従前賃料、直近合意後の事情変化、契約経緯なども踏まえて、法的・経済的に説明できる提案額を検討します。

比較表に最低限入れたい項目

交渉資料では、対象住戸と比較事例を同じ項目で並べます。

  • データ種別と出所
  • 所在地または対象エリア
  • 建物種別、構造、築年
  • 面積、間取り、階数、駅徒歩
  • 賃料、共益費、その他の月額費用
  • 敷金、礼金、更新料、フリーレント
  • 普通借家・定期借家の別と契約期間
  • 募集日または契約時期
  • 対象住戸との主な相違点
  • 採用・除外の判断とその理由

数字を多く並べることよりも、「どのデータを、なぜ比較対象として採用し、どの限界を残したか」が分かる資料にすることが大切です。交渉相手に不利な情報も含めてデータの性質を開示した方が、資料全体の信頼性は高まります。

よくある質問(FAQ)

Question 1ポータルサイトの募集賃料だけで増額を求められますか?

募集情報を根拠の一つとして示すことはできますが、それだけで相当な増額幅が決まるわけではありません。募集条件と実際の契約条件が異なる可能性を踏まえ、複数の事例、同一建物の履歴、契約・取引事例などと組み合わせて検討します。

Question 2同じマンションの別住戸が高い賃料で決まれば、同額まで上げられますか?

同一建物の事例は比較しやすい資料ですが、面積、階数、向き、設備、改修状況や契約時期が異なる場合があります。また、新規契約の賃料と入居中住戸の継続賃料は同じではありません。相違点と従前の契約経緯を確認して個別に判断します。

Question 3「取引事例」なら、すべて実際の成約賃料ですか?

名称だけでは判断できません。どの情報を取引事例と呼ぶか、収集元、加工方法、成約確認の範囲はサービスやデータ項目によって異なり得ます。利用時点の仕様と利用条件を確認し、交渉資料には確認できたデータの種類を正確に表示します。

Question 4スマサテの査定額が、そのまま法的な適正賃料になりますか?

なりません。スマサテは取引事例の比較、類似事例の抽出、資料作成に役立つツールですが、借地借家法上の継続賃料や、交渉・裁判で認められる金額を自動的に確定するものではありません。弁護士による法的検討や、必要に応じた不動産鑑定士の鑑定評価とは役割が異なります。

Question 5フリーレントや礼金のある物件はどう比較しますか?

月額表示だけを比べず、比較の対象期間を定めた上で、賃料、共益費、フリーレント、敷金・礼金その他の一時金を各事例で同じ基準にそろえます。ただし、簡易な比較表で一律の換算式を当てはめると誤差が生じることがあります。交渉段階では前提と条件差を明示し、精密な評価が必要なときは専門家による検討を行います。

対象物件の比較材料を整理したいオーナーの方へ

弁護士法人いかり法律事務所では、一棟・複数戸の賃料見直しを中心に、資料と取引事例を確認し、交渉に進む前の事前確認を行っています。

当事務所の確認・診断は、賃料査定システムの表示額をそのまま請求額とするものではありません。対象住戸ごとの契約関係とデータの性質を確認し、法的・経済的に説明できる見直し方針を検討します。

オーナー向け事前相談フォームから、物件概要、戸数、現行賃料が分かる資料の有無などをお知らせください。

管理会社からオーナーをご紹介いただく場合は、管理会社向け紹介フォームをご利用ください。

ご注意

本記事は一般的な情報提供を目的としたもので、個別案件についての法律意見や不動産鑑定評価ではありません。賃料増額の可否、適切な提案額、必要な資料は、契約内容、物件、地域、従前の経緯等によって異なります。相談・依頼により増額や合意、調停・訴訟の結果を保証するものではありません。正式な対応範囲と費用は、個別のご案内・契約内容によります。

当事務所の「診断」は、契約と資料をもとに法的請求・交渉方針を検討するもので、対象不動産の経済価値を判定する不動産鑑定評価ではありません。正式な鑑定評価が必要な場合は、登録を受けた不動産鑑定業者・不動産鑑定士への依頼を別途検討します。

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